2018/09/28

【記録】平和を考える会 2018.8.9 永井さんのお話

 8月9日、長崎の原爆記念日に合わせて行われた豊中友の会「平和の集まり」で、永井素子さんからお聞きした長崎で被爆された体験を原稿に基づいてここに記録します。核兵器廃絶をもとめ、平和を願う祈りを次の世代に継承するために。
豊中友の会豊中方面 永井素子

A  誕生から1945年、原爆投下後の様子
 私は昭和7年(1932年)、神奈川県鎌倉で生まれ、父の転勤で、横浜へさらに九州の長崎へ行き、長崎では10年余り幼稚園から高校2年の春まで住んでいました。
長崎2018 蛇踊りの練習
長崎2018 おくんちの御輿
 長崎の街は、坂の町、いくつもの山やまに囲まれ細長い湾のある窪地にできたあまり大きくない町でした。古くからオランダやポルトガル等との貿易港でしたので、外国人も多く、私たちが移り住んだ昭和13年頃は中国の上海航路の豪華客船が毎日のように入港し、ロシア人や中国(当時の支那)人やイギリス人の子どもとも仲良しでした。三方の山腹は夜になると電灯がチカチカと美しく光りました。特に8月のお盆には、眺めのよい山の斜面の墓地にいっぱいの灯籠の灯りが並びきれいでした。精霊流しも盛んでしたし、諏訪神社のお宮日(おくんち)も御輿だ、蛇踊りだとにぎやかでした。大きなキリスト教会や修道院や、お寺がいくつもあり、どこにいても朝夕鐘の音が聞こえました。平和な平和な町でした。
長崎は坂の町(2018Nagasaki365から)
小学校(当時国民学校)に入学、2年生の時には紀元2600年の大きなお祭りの後、日本は日中戦争から第二次世界大戦へと戦争を拡大し、次第に戦争の影響が暗雲のように広がっていきました。夜は灯火管制で暗く、盆の提灯の灯りも消え、お宮の御輿もなくなり、子どもたちは武運長久をただ祈るようになり、上海行の船も灰色に塗り替えられました。港は、貿易から兵隊や兵器輸送に変わり、港の周りは三菱造船所、三菱兵器の工場でいっぱいになりました。町には秘密の場所がたくさんでき、港も工場も高い塀の中に見えなくなりました。

 私たちの毎日の生活も変わりました。米のご飯の代わりに南瓜とすいとん(粉の団子)の食事で、私たち兄弟は「お前の南瓜が大きい」『団子の数が多い』といってけんかをしては叱られました。私は三人兄妹の一番下、しかも女の子だったのでいつも小さい団子でおつゆでおなかを膨らませ、そっと押し入れの中で泣いたこともありました。

 国民学校ではゼイタクは敵だ、欲しがりません勝つまでは、鬼畜米英打ちてしやまむ、と大声を皆で出したり、音楽もドレミファの音階は敵国語で口に出すことはダメ、「ハニホヘトイロハ」が音階で何度もやり直しさせられました。

 1945年(昭和20年)の4月、私は女学校1年生になりました。今の中学1年生です。上級の3年生、4年生は三菱兵器工場へ、2年生は学校内の工場へ行っていました。1年生の私たちは畠作りが主であっても、空襲警報や警戒警報が鳴らなければ、友達と一緒に勉強する時間がありました。例えば体操の時間は薙刀の練習でした。でもそれも1か月余りで刃の金具を国へ供出。その代わりに先をとがらせた青竹での稽古に変わりパラシュートで敵が落下して来たら、その竹槍でやっつける練習でした。
 毎日のように若い先生は兵隊として出征していなくなり、主食も副食も調味料も燃料も、着るものも手に入らなくなりました。でも当時の私どもは青年たちが次々に桜の花のように散っても満州や中国を助けてあげているんだと思い、誰に習ったか神風が吹いて日本は戦争に勝つと思わされていました。ですから昭和20年、中学1年の私は、8月9日原爆落下直前も、空襲警報解除になり、防空壕から出て、家の中に入りモンペはそのまま長袖の上着を脱いで、バイオリンの練習を始めていました。ここからが原爆の話です。

 突然「ブゥー―」とすごい音がした時、窓という窓がピカーと光り、ガラスというガラスが粉々になって降ってきました。何が起きたのかわかりませんでしたが、防空訓練で練習した耳と(爆風で鼓膜が破れないように)、目を(目が飛び出さないように)押え、座布団をかぶって伏せましたが、顔の傷から出た血は両手いっぱいになり指の間から流れ落ちました。「血が、血が!」という私を、隣室にいた母がカーテンにくるんで壕へ運んで手当てしてくれました。その間どれくらいの時間でしたでしょうか、もうこれで死ぬのかとふと思いもしましたが、やっと血も止り、30数カ所の傷、顔中赤ちんだらけ手足に包帯をして壕から出てみると、空は赤黒い雲で覆われていました。我が家は鉄筋コンクリートの住宅でしたが、家の中は、吹き飛んだドアや窓ガラスがかけらになって、畳の上に一面3cmほどの厚さに積もっていました。
 私を寝かせようと母は掃除にかかりました。(母も背中を切っていたのですが、私の手当てで母は血が流れているのにも気づかず、翌日になって分かったほどでした。)スコップですくうガラスの山、掃いても掃いてもとりきれないガラス。やっと一部屋どうにか敷布団が敷けるほど片付いたとき、父の大学の学生が3人、三菱兵器工場で被爆、背負われて山越えしたところをトラックに拾われて逃げてきました。衣服はボロボロ、やけどと骨折で痛さにうんうん唸っていました。彼らは私の傷よりひどく、私も母を助けて手当てをしました。もちろん医者などいません。彼らから浦上の様子を聞きました。工場は鉄骨までぐにゃぐにゃにつぶれたこと、全員がやけどや骨折をしていたこと、私の女学校のT先生は落ちた鉄骨があたり頭が二つに割れたこと、それでも生徒たちが早く逃げられるように誘導なさったこと、事務を執っていた女子学生が机の上の両手を鉄骨に挟まれ、皆で鉄骨をあげようとしたが上がらず手を引っ張っても取れず、その子が「手を切って」というので引っ張りきろうとしたが火災の煙で息苦しくなり、「私はいいから逃げて」と言われて逃げたこと、後ろの煙の中からいつまでも「サヨーナラ!サヨーナラ!」と声が聞こえていたこと、山へ山へと逃げていく途中、畑で働いていて上半身裸だったのか背中が一面皮がむけてしまった人にあったこと、やっと私の家(爆心地より山ひとつ3km離れていました)に辿りついたのでした。
爆心地より3km離れていても、我が家から小さな道を隔てたお家の、生まれて1週間ほどの双子の赤ちゃんは座敷から庭の隅まで吹き飛ばされ即死、隣に住むおばあさんは翌日死亡。多くの人がしたように小学校の校庭で荼毘に付しました。私たちは校庭の隅の松ぽっくりを拾い集めて薪にし手伝いました。――私は今も松かさを見ると何日も何日も続いた荼毘の火と煙が見えてきます。
米国海兵隊のカメラマン、ジョー・オダネル撮影の写真集「爆心地」
長崎の惨状

 8月9日被爆、8月15日、終戦。大学生を郷里に帰し、父や母そして熊本から助けに来た兄と熊本へ逃げることになりました。これが最後の汽車だというのに乗るため、持てるだけの食料と衣類を自分より大きい袋に入れて背負い、電気も電話もなく、電車も通らない、逃げる人でごったがえした町を通り抜けてトボトボと駅まで白い道を歩いたのが17日でした。駅も人でいっぱいでした。いつ汽車が来るかわかりません。ただこれが最後になるという汽車を皆待っていました。駅といってもすぐ近くが爆心地で瓦礫がある中に線路があるだけでした。日が暮れても汽車は来ません。
 
 たった一つの爆弾で家も木も工場も吹っ飛んでしまって瓦礫が一面果てしなく続く中で、あちらにもこちらにも紫の煙がのぼっています。食事の用意の煙ではありません。人を焼く煙です。次々に死んでいく人を身内の人とか近所の人が2,3人寄って焼いているのです。駅の周囲はその煙でいっぱいでした。その火で、ぼんやり薄明るく見えました。その煙を稲光りが時々気味悪く、より明るく際立たせていました。
 私は兄に石の焼け残りのベンチを見つけてもらい夜半から2時間ほど座っていました。ベンチには座れるだけの人がかけていました。私は一番端で隣にはわたしと同年くらいの女の子が手拭をかぶって座っていました。彼女はずっとじっとしていました。片手は膝に片手は被った手ぬぐいを軽く押さえているようでした。その時私はもう人を焼く煙にはなれてしまっていました。町中に死人があり、けが人があり、人を焼く煙がある時、人の心は変わってしまうのでしょうか。やけどの人を見ても骨折の人を見ても驚かなくなってしまいました。
 けれども2時間たってふと立ち上がりかけて見たその隣の少女の顔は、本当に驚きました。見てはならないものを見てしまったようなたまらない気持ちでした。真黒な石炭のようなごつごつと干からびた目と口だけのある顔でした。私は少女の隣に座っていた間彼女の膝に置かれた白い手を見ていました。モンペの下にあるだろう、きちんとそろえられた二本の足を見ていました。だれもがただ汽車の来るのを待っていて互に話しかけるほどの元気はありませんでしたが、私は自分と同じ年くらいの少女に好感を持って座っていたのでした。― 私の顔だって赤チンだらけで今ならとても人前に出られる顔ではないけれど、手拭の陰の少女の顔はそれまで一度も見たことのない、またそれ以後見たことのない顔でした。白い手をしたあの少女はきっと白いきれいな顔をした少女だったでしょう。それが恐ろしい爆弾のために一瞬であんなになってしまった…
写真集「爆心地」から--弟の亡骸を背負って火葬場に来た少年
少年はなきがらを降ろした後、…兵隊のように直立し、顎を引き締め、
決して下を見ようとしなかった。ただぎゅっと噛んだ下唇が
心情を語っていた。火葬が終わると彼は静かに背を向け、その場を去った。…
明け方やっと汽車が来ました。私たちは窓から汽車に乗りこみました。熊本に着くまでにも怖いことはいろいろありましたが、着いて静かに寝ることができました。父は、私たちを送り届けてすぐ、また救助のため長崎へ向かいました。母と私は8月末まで熊本にいましたが、その間下痢、発熱、嘔吐、歯ぐきからの出血で苦しみました。3か月ほどで櫛けづる度抜け、髪の毛が半分になりました。全く抜けた人も沢山いました。これが被爆の病気の症状だと後になってしりました。

 9月に長崎へ帰りました。まだ人を焼く煙は毎日毎日続いていました。夏中、爆心地で働いた父が倒れました。階段を登るのも苦しそうでしたが病院に又学校(病院になっていた)に整理や調査に出かけていきました。父は自分の体のために注射1本受けるのに、臨時市民病院である小学校へ2時間かかって歩いて行き2時間以上待ちました。市民全部が病人でしたから仕方のないことでした。待つ間に読む「一つ星の文庫本」を持っていくのが当時の父には「何10kgの荷物を運ぶようだ」と言っていましたから、その衰弱ぶりがわかるでしょう。薬も食糧もなく隣家でもらった枯れかけた柿の葉を煎じて飲みました。原爆症にはそれが効くと聞いたからでした。
写真集「爆心地」から--原爆落下後の長崎、浦上天主堂を望む

やっと始まった女学校の鉄の窓枠はガラスが破れたまま、曲がったまま冬を越しました。三月の女学校の追悼式は長く長くかかりました。200名をはるかに越えた死者でした。
 咲く花は/はかなく散れど/今春は/またもにほふべし。
 もみじ葉は/はかなく散れど/今秋は/またもにほふべし
 みまかりし/一夜もすがら/待てど再び帰らず。
 あはれ/あはれ/わが師よ/わが友
 受けよ/けふの/みまつり。
 私たちはこの悲しい式典のため音楽担当の寺崎先生が作曲された鎮魂歌を泣きながら合唱しました。
 世界中で数少ない被爆者、しかも一番ひどかった人たちは亡くなってしまったのだから、生き残った者が原爆の恐ろしさを、戦争のおそろしさを代わって発言しなければならないと強く思いました。

B.大学卒業後1955年(昭和30年)再び、長崎へ。
 単身就職、出会った一人の生徒の被爆死。
 高校2年、父の転勤で福岡へ、原爆にあってちょうど15年目に大学を卒業し、長崎の活水女学院に高校教師として就職しました。高校1年生のクラス担任をさせていただきました。クラス担任は授業のほか、生徒が欠席すると家庭訪問をするのです。授業料が払えず欠席する子や病気で長期に欠席する子がいました。その中の一人、高1の生徒とは思えないほど特別小さい子がいました。体格も作文の書き方も小学生のようでしたが、とても優しい子でした。訪問すると遠い親戚夫婦の家の屋根裏部屋に寝ていました。父、母、兄、姉も原爆で亡くした子で、虐待されていたというわけでなく当時は住むところがなかっただけなのです。新米の私は一人では何もできなかったので、学校へ帰りベテランの先生や親戚の方と相談して、長崎大学病院に入院させました。寒い日でした。被爆者の病棟でした。あれから10年経っているのに病棟の入院患者はいっぱいいて驚きました。何回か見舞っても私たちは病室に入れませんでしたが、クリスマスの夜、女学院の先生やクラスの子ども数人と窓越しに賛美歌を歌ったのが最後で、彼女は春を待たず天へ召されました。私たちはまた数人で見送りましたが、病院の方に「目の神経にたくさん癌ができていました。研究のため彼女をひきとりたい」と申し込まれ、親戚の方と相談して病院の意向を受けいれました。ご親戚から「先生がお持ちください」と一枚しかないその子の写真を渡されました。この写真です。次の年、私は家族の介護のために福岡に戻りました。
 10年経っても、70年経っても原爆の苦しみは残っています。

C. 結婚、長女が被爆当時の私の年齢になった年の長崎原爆慰霊祭で出会った、池田早苗さんのこと。核兵器のない未来のために。  
 2001年(平成13年)被爆56周年、長崎原爆慰霊祭へ参加しました。
 慰霊祭で私どもは「献花」「献水」をしました。「献水」は初めてでした。「水!」「水を!」と求めながら、焼けただれた体で浦上川までたどり着いて亡くなっていった先輩や友人の姿が次々と浮かびました。その水を長崎市の中央、北、東、西、南の5カ所の泉や井戸から汲んだ水をささげました。
2018・8・9 長崎原爆慰霊祭 献水

  当時の総理大臣の小泉さんや各党党首の言葉がありましたが、特に心に残ったのは雨の中で歌ってくれた城山小の児童合唱と純心の女子高生の千羽鶴の歌声、そして被爆者代表の池田早苗さんの平和への誓いでした。
 平和への誓い

「わたしは12才の時、母と買い出しに行く途中、爆心地から2㎞のところで被爆しました。自宅は爆心地から800m離れた今の江里町で、兄弟5人がそこで被爆しました。家の外にいた6才の妹は、真っ黒焦げになりすでに死んでいました。原爆投下から1週間たった8月16日、一番下の弟が死にました。母は寝込み、父も兄弟の看病で手が離せません。それで、私は自分の弟を一人で火葬しました。

弟は関節をギクギクいわせながら燃えていきました。その燃え上がる真っ赤な炎が夕陽と重なり、私の流れる涙も赤く染まるのがわかりました。この弟は、太平洋戦争が勃発した昭和16年12月8日に生まれ、終戦の翌日死にました。この4才の弟は、平和な日を一日も生きることができなかった、かわいそうな弟でした。翌8月17日には8才の弟が死に、次の8月18日には10才の妹が死んでいきました。毎日毎日一人、また一人と死んでしまいます。

8月19日、父も母もいない時、14才の姉が死にました。この姉が死んでいく少し前に、すぐ横の池に赤トンボが飛んできました。赤トンボは、池の真中の棒の先にとまりました。人も、動物も、昆虫も植物も、すべてが焼き殺されてしまいましたのに、動くものが見えた。

「…姉も私も生きられるのだ、生きることができるのだ。…」

赤トンボに近寄ろうと池に入ったとき、姉が私を呼びました。池から上がり、「ネエチャン何?」と言うと、姉は手と足がしびれるから摩ってくれと言います。姉の身体にはどす黒い斑点が出ています。やっぱり姉も死んでしまうのだと思っている時、突然姉が言いました。

「日本の国は戦争に勝っているね。」『…ウン』と返事しますと、いきなり立ち上がって両手を上にあげ、「天皇陛下万歳」と言って倒れて死にました。
 戦争が憎い 
  原爆が憎い
   核兵器が憎い
今、私は被爆の体験を若い人に語り継ぐ証言活動を続けています。核廃絶を求めるには永い年月が必要です。これからも核兵器廃絶と平和のための運動を、若い人々と共に行動していくことを被爆者の一人として誓います。
             平成13年8月9日 被爆者代表 池田早苗
池田早苗さんの「平和への誓い」を読む度に、私は泣いてしまいます。戦争が憎い、原爆が憎い、核兵器が憎いと私も思います。でも憎いだけではありません。
 長崎に投下された原子爆弾はその3日前に広島に投下されたウラン235を原料としたものと異なり、より強力なプルトニウム239を原料に変えています。たった1発の原子爆弾ですが、8月9日から12月末までに73,884人以上の死者、また負傷者は74,909人以上でした。原爆の苦痛は被爆した日だけでは終わらないのです。肉体的精神的にずっと続くのです。もうこの苦しみは長崎でおしまいにしたいのです。日本だけでなく、世界中の人が平和でありたいと願います。
 最後に、アッシジのフランチェスコ(1181-1226)の祈りを祈ります。

 「神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに愛を
  いさかいのあるところにゆるしを
  分裂のあるところに一致を。」

これで私のお話を終わります。お聞きくださってありがとうございました。
     2018年8月9日 豊中友の家にて 永井素子(豊中友の会会員)
 (写真は2018年夏の長崎、
  資料「爆心地」ジョー・オダネルの写真集 1994発行)